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高嶺格『リバーシブルだよ人生は』@伊丹

どうも、樋口です。なんか2カ月に1回というペースが定着しつつあるような気が……。どうも「署名原稿 or mixi」のどっちかでないと、やる気が起こらないタイプみたいですね、私は。こういう「表のブログ」って苦手なんですよ。すいません。とりあえず踊りについて書いたら報告するブログということでご容赦あれ。というわけで、またlog-osakaに記事書いてます。

高嶺格『リバーシブルだよ人生は』@伊丹
http://www.log-osaka.jp/article/index.html?aid=304

それと、来月の桜井圭介さんのダンス批評ワークショップ、参加することにしました。なにせ時の人なので、私のミーハー心が動いてしまいまして、教えを請いに伺おうかと。あと、先月でしたか、KIKIKIKIKIKIの新作公演がありましたが、このときのレビューもここにあげるつもりです。なるべく早く。いつかわかんないけど。それではまた。


寺田みさこ「愛音」@びわこ、美術:高嶺格

むちゃくちゃまた間が空いてしまいましたね。何をしていたかというと、自分の書いた本の献本やら御礼状書きやら書店イベントやらに、ここのところずっとかかりっきりでした。そう、私の本が出たんです。でもあいだ空けちゃってすいません。ほんとすいません。

拙著ですが、タイトルは『死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学』といいます。読んで字のごとく、ゴスロリちゃんの愛好する文化の、歴史的系譜を書いたものです。アマゾンそのほか有名書店で売ってますので、ご興味をお持ちの方はどうぞ。身体表現とは非常に重要な関係がある本なので、ダンスを見る/作る上で役立つかどうかは別にして、是非ご覧になって下さい。

http://www.amazon.co.jp/%8E%80%91z%82%CC%8C%8C%93%9D-%94%F3%8C%FB-%83q%83%8D%83%86%83L/dp/4925220225/ref=sr_1_21/249-2424959-3973142?ie=UTF8&s=books&qid=1184849291&sr=8-21

で、ダンスの方ですが、これは「log-osaka」というwebマガジンに書かせてもらいました。なので、下記リンクをどうぞご覧下さい。こちらにもいろいろ書こうかと思っていましたが、ほぼ言いたいことは書き尽くした感があるので、リンク先をどうぞ。

http://www.log-osaka.jp/article/index.html?aid=301

なんか近況報告みたいになりましたが、そんなところで、それでは。


田中泯@須磨海岸

なんだか非常にあわただしい日が続いて、ろくろくダンスを見に行くこともまかりならず、いろいろ見逃した公演もこの間多いのですが(きまたりのソロも白井剛も見逃した)、やっと先日久方ぶりにダンスを見ることができました。「田中泯 独舞 場踊り in 須磨海岸」です。

舞台となったのは神戸市須磨区の、何もない海岸。瀬戸内の大海原が、天然の大舞台です。照明は夕刻の空灯り、音響は打ち寄せる波の音。砂浜に置かれた一脚のベンチとシャベル、下手にある花道替わりの突堤だけが、「舞台」であることを物語っています。

気がつくと砂浜の遙か彼方に、ただ一人、黒い影が佇んでいます。紅い襦袢に黒羽織、黒頭巾で顔を覆った、田中泯その人です。美しい六甲の山並みを背に、ただ砂浜に立つだけで、ものも見事に絵になっています。そのまま、もの思いに耽るように一人で海を見つめ、その場に佇むこと数分。ゆっくり歩いて海を見つめ、さらに波打ち際までゆるゆると、蝸牛のように歩みを進めていきます。やがて波打ち際から海の中へ。腰まで波に洗われながら海中にふと立ち止まり、遠ざかる何かに別れを告げるように、ゆっくりと右手を挙げて静止する。その孤独な立ち姿の、いかに美しかったことか!

しかもこの間、顔は黒頭巾の奥深くに包まれ、一度も客席を向きません。ただただ海を見つめ続けるだけ。人間のからだの最強のメディアであるはずの「顔」を封印し、それでもなお強烈な黒い光を放つ佇まい。ダンスを、踊りを見るというより、そこに一個の峻厳たる肉体があるという事実に、見る者は圧倒されます。

やがて舞台中央、海中に据えられたベンチに座り、再び海を見つめること数分。ベンチもろとも後ろ向きに倒れ、海中でもがく。さらにシャベルも倒れて波に流され、ベンチともども波に洗われ、ゆらゆらと波間に揺れています。やがてベンチを超えて、海の向こうへさらに進むと、そこで初めてダンスらしいダンスが始まる。延々と無言の立像を空間に刻みつけた挙げ句、そこで初めて踊りが始まる、この悠揚として迫らぬ肉体の筆致!

やがてダンサーは海からの風に逆らうように、花道ならぬ突堤の上を、一歩一歩歩んでいきます。風が吹けば風になびき、風を巧みに背中に逸らす。空気の塊の狭間に潜り込むかのように、身をくねらせて体を押し出す。ダンサーは次の一歩を踏み出すものの、また海風になぶられて体を撓める。その果てしない繰り返しのうちに、いつしか突堤の先へ先へ。近松の心中ものを独り演じるがごとき道行きの果て、辿り着いた突堤の上。蒼く濁った海のただ中に立つ紅い影、震えるように風を受け、波音を聴く姿の心細さはいかばかりか! 

このダンスはまさに「草」のダンスであって、何の物語をも語りません。いや、それどころか、それは踊りと呼ぶことすらはばかられるほど、静謐さに充ち満ちています。通常ダンスは動きを見る芸術ですが、ここでは動きと動きの狭間、その空虚な時間こそが、雄弁に何かを物語っています。寄せては返す波のまにまに、ぽっかりと風景を切り抜いたかのような肉の影が立つ。その存在の負の重み、そこに田中泯という存在が浮き彫りにされているのです。

2007.6.3 (sun)
田中泯 独舞 場踊り in 須磨海岸


黒沢美香&大阪ダンサーズ「jazzzzzzz-dance」@Art Theater dB

黒沢美香さんは、石井漠さんのお弟子さんのお嬢さんにあたる人だそうです。石井漠さんは日本のモダンダンスのまさに創始者と言える人で、20年代にヨーロッパとアメリカをツアーし、アンナ・パブロヴァやニジンスキーと並ぶと評せられたそうですから、全くもって大変な方です。そのお弟子さんのお嬢さんとして、子ども時代から舞台に登り、10歳で全国舞踊コンクールを受賞。以来幾度となく海外ツアーをこなし、パニョレ国際にノミネートされ、ダムタイプやキュピキュピとも共演する、といった具合で、50年間踊りっぱなし。モダンダンス、ポストモダンダンス、コンテンポラリー・ダンスと呼び名が変わっても踊り続ける、ほとんど日本のダンスの生き証人と言える方です。

http://www.k5.dion.ne.jp/~kurosawa/mika_profie.html

大阪ダンサーズはそんな黒沢さんを慕って、ワークショップに集まってきたメンバーを集めた、いわば関西在住の黒沢シンパが集う梁山泊のような集団と言えるでしょう。「jazzzzzzz-dance」とは、ご本人の言葉を借りれば「ジャズダンスのjazz」ではなく、「jazz音楽の仕組みを尊敬してのタイトル」であり、「zの数は公演のたびに増えていく」のだそうです。最初聞いたときはさっぱり意味がわからなかったのですが、公演を見て納得しました。まさにその通りの内容でした。

http://www.db-dancebox.org/fl_sc/sc_p/sc_p_0704_kuro.htm

舞台は最初、各ダンサーが身をよじらせながら即興とおぼしき振り付けで入場してくるところから始まります。BGMには6拍子のリズムが、恐らくは昔懐かしいTR-808とおぼしき音色のリズムボックスでループしています。当初は13名のダンサー各自がこのリズムを無視するようなしないような、同期するともしないともわからぬ曖昧なリズムで踊っているのですが、ふとした拍子にあちこちでリズムが発生し、突然2人が全く同じ振り付けをユニゾンで踊って別れていったり、それが今度は3人になったり、微妙に食い違う踊りを踊ったりということを繰り返し、最後は全員がユニゾンに参加して群舞を踊る。それは混沌の中から秩序が生成するような、不思議な感銘を覚える光景でした。

ここからは私の推理……というほどでもないのですが、恐らく先にユニゾンの踊りを……たぶん16小節分くらいの、メインテーマにあたるダンスを組み立てておき、入場時はそれをバラして、即興で踊らせながら入場させたのでしょうね。で、気分が乗ってきたときに各自メインテーマを踊り始める。メインテーマをあらかじめ決めておき、即興で間をつなぎ、ソロとソロを競わせたあとで、メインテーマに再び回帰するのは、ジャズの基本的なスタイルです。まさに「jazz音楽の仕組みを尊敬」しつつ作られたダンスだと言えるでしょう。13名のダンスはそれぞれ個性に富んで美しく、それが群舞に収斂していくさまは、非常にスリリングな体験でした。

さて、ここからが少し考えどころなのですが、こうした「jazz音楽の仕組みを尊敬」しつつ作られたダンスにおいて、テンポはどういう役割を果たすのでしょうか。というのも、このダンスでは群舞になっても、全員が正確に同じテンポで踊ることがないからです。「メインテーマに回帰する」ことがテーマなわけですし、わざわざリズムボックスを使うほど「正確なリズム」を暗示してるわけですから、テーマに戻ったときはきっちりリズムをキープして欲しい……という願望は、ダンスに不慣れな私の未熟さなのでしょうか。事実、どうやらコンテンポラリー・ダンスの世界では「音楽のリズムに従属するのはダサいこと」とされているようで、桜井圭介さんがこんなことを書いておられます。

http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/mika.html

いや、ずれるのは良いんですよ。たとえば音楽でもロックンロールなんて、シャッフルとジャストのリズムを行ったり来たりしますしね。それまでの普通の音楽的常識から見たら、あんな暴力的なズレ方は御法度だったでしょう。でもね、もう少し振れ幅を小さくするとか、ズレ方そのものに約束を作るとか、そういう微妙なところを愉しみたいと思うのは、よくないんでしょうかね。このへんよくわかんないので、今後考えたいなと思う部分です。

まぁ、以上は昔ちょっと音楽やってた私の個人的なぼやきで、基本的に美しい公演でした。何より私のまぶたに焼き付いて離れないのは「しげやん」こと北村成美の、臨月の体で踊るダンス。お腹をかばってそれほど大きな動きはしないのですが、この人は客あしらいが抜群に巧い。客いじりすれすれのところまで客席に寄って仕掛ける駆け引き、そして何よりあのお腹で踊る豪快さ! それと、ピンヒールを履いてお化粧ばっちりしてセクシーになった「きたまり」。最初別人かと思ったよ。たまにはああいう「きた」を見るのも良いですね。あとは名前をなんと仰るのか、凄い腹筋の綺麗な方がいたなぁ! 恐らくご本人もそれを意識しておられるのか、ばっちり腹筋が見える服を着てらしたけど。うん、すごいいいダンサーを集めた、良い公演でした。これが2週間足らずでできあがる時点で既に奇跡なわけで、これ以上を望むのはやっぱし贅沢ですね。うん。これでいいのだ。

2007.4.13 (fri) -15 (sun)
黒沢美香&大阪ダンサーズ公演
jazzzzzzz-dance
Art Theater dB


京都・ダンス・身体

久々に更新です。昨日は京都の芸術センターに、「ダンス批評ワークショップ」というのを受講しに行ってきました。講師は國學院助教授の高橋大助さん。このワークショップは、「京都ダンスプロダクション」という非常に息の長いプログラムの一環として行われているもので、昨日はメンバーの書いた批評の合評会でした。京都ダンスプロダクションとダンス批評ワークショップについては、下のリンクを見てください。

http://www.kac.or.jp/dance/production.html

要するに、実作者と制作者と批評家の養成を、トータルに一つのプログラムとして有機的にやっていくというもので、かなり野心的な試みです。私は美術の分野で細々と仕事をしていますが、こんな長期にわたる緻密なシーン全体育成のプログラムは、少なくとも関西では見たことがありません。

美術手帖でダンスの特集が組まれて以降、ダンスは熱い分野になっていると言われています。が、なかでも京都を中心とする関西のダンス及び身体表現は、いま、ものすごく熱い状況にあると思います。一つの証左がこの一連のプログラムですが、それだけではありません。京都にはコンテンポラリー・ダンス専門のNPOであるJCDNがあったり、ダンスに非常に強い京都造形芸術大があったり、身体・舞台表現と美術の双方を行き来している、高嶺格さんという素晴らしいアーティストがいたりします。また、今回このプログラムで見た三組は、いずれも高い水準の作品を作っていましたし、なかでも京都造形からは「きたまり」という非常に優れた個性が出て来ました。一方神戸では昨年、神戸女学院に、音楽学部音楽学科、舞踊専攻というコースが新設されています。何かが始まりつつあるという印象を、とても強く感じます。

http://www.kobe-np.co.jp/rensai/cul/309.html

実はダンス批評の分野では、関西は既にネット上で、大きな才能を一人産み出しています。「コンテンポラリーダンス目撃帖」というサイトを続けている、cannon26さんです。この方のサイトは個人ブログとしては驚くべきことに、「コンテンポラリー・ダンス」でググってみると、なんと第3位に出てくるのです。そして今回の批評ワークショップには、このcannon26さんも参加していたのでした。彼も私も神戸在住で、それが京都のダンス批評セミナーで出会う。この密度に反応できなければ嘘です。

http://d.hatena.ne.jp/cannon26/

関西には演劇からパフォーマンスにはみ出していった維新派があり、身体表現と美術を架橋したダムタイプがあり、舞踏の伝統を革新しつつ守り続ける大駱駝艦があります。また美術に目を向ければ、自らがモンローや三島に扮して写真を撮る森村泰昌さんがおり、特殊メイクやCGで少女を老女にしてしまうやなぎみわさんがおり、メイクで無数の匿名の人になってしまう澤田知子さんがおり、頭を半狩りにしてハンガリーに行ったり、女装してバーに立つパフォーマンスをやったりする榎忠さんがいます。哲学の分野ではファッションと皮膚の問題を語る鷲田清一さんや、身体論を積極的に語り続ける内田樹さんがいます。身体をメディアとして捉え、そこで何かを語り、そこから何かを読み取る伝統のようなものがもともと関西にはあり、それがいまダンスを巡る状況の中で、激しく活性化しているのじゃないかという気がします。

体ってなんなのか、体をどう見てどう考えたらいいのか、私には今のところ全くわかりません。ただなにか熱い、何かが起こりそうな気配が、いまの関西には濃厚に漂っています。この感じは、私が初めて関西にやってきた頃の美術界、いわゆる「関西ニューウェーブ」と呼ばれたあの時代、中原浩大さんや森村さん、椿昇さんが次々と出て、「美術界は西高東低」と言われた時代の何かと、極めてよく似ていると感じます。理屈じゃなく、匂いが、熱っぽさが似ているのです。そしてあのころと決定的に違っているのは、自分自身がその熱気のただ中にいるという実感です。

私はたまたま少年時代に福岡にいて、いわゆる「めんたいビート」が東京に去っていく最後の瞬間を目撃しました。その後海洋堂やDAICON3など、関西オタクシーンの盛り上がりと関西ニューウェーブのシンクロ現象を見て関西に来たのですが、結局それが全面開花したのは、2000年以降の東京でした。何かの盛り上がりの中に身を置くという体験は、本当にこれが生まれて初めてです。そして「やっと間に合った」という、何かむずがゆい感覚が、自分の体内にあります。さしたる根拠も明確なビジョンもなく、ただとてもワクワクしています。そしてそれが「何かが始まるとき」の感覚なのだろうと思います。


KIKIKIKIKIKI「サカリバ」@京都芸術センター

さて、「サカリバ」の話です。KIKIKIKIKIKIは4人の女性からなるカンパニーなのですが、この作品は4人全員がベッドの上に腰掛けているところから始まります。

暗闇の中、白い衣装を着た4人は背中合わせで、放射状に脚を伸ばして座っています。その様子は闇の中に、まるで白い花が咲いたかのようです。花弁である4人は、やがて虚空に口づけを繰り返す動作をはじめ、ゆっくり「開花」して、こちらをとろんと見上げるのです。花とは植物における性器であり、ベッドは性欲の巣となる場所です。そこに座るおんなたちが、とろんと開いてじゅぱじゅぱと音を立てる。既に嫌悪感を漂わせるほどに、濃厚な性的オブセッションです。

舞台の様子が一変するのはここからです。はじめこそ団体行動をとっていた彼女たちですが、舞台が明転するやいなや、激しく個別に分かれて踊り狂い、ベッドを争って占拠しようとします。ベッドに座る者があれば、たちまち相手を引きずり下ろし、ときにタッグを組んで協調し、かと思えばすぐに裏切って抜け駆けを行い、キスを求めて絶叫し、ベッドの上で激しいピストン運動を演じて見せます。ただしベッドの上での腰の上下はあまりに激しすぎ、それが性的な動作なのか、単なる自己破壊の自虐的動作なのかもわからなくなるほどです。そして最後は裸になってプロレスを演じ、フォールをとって勝ち名乗りを上げる。あまりにもあからさまな、この女性の「性(さが)」の強烈な描写に、賛否両論が出るのも頷ける話です。

ラストではおんなたちが争って奪い合ったベッドがひっくり返されるのですが、そこにはギッシリ花が詰まっています。そしておんなたちはこの花を食い荒らし、舞台上に撒き散らしながら踊り続けるのです。花の詰まったベッドは通常、死者が横たわるための寝床、すなわち棺桶を意味します。そして花と唾液、数足の原色のハイヒールで、舞台上を滅茶苦茶に汚したあと、媚態を振りまきながら彼女たちは去っていきます。カラフルな花とハイヒールが無惨に撒き散らされた舞台は、まるで女の欲望の最終処分場、性欲と消費欲のゴミ捨て場のように見えるのです。

かように濃密な意味と象徴性のまとわりつくこの作品ですが、こんなふうに物語仕立てで記述できるのは、私がメモをとって見ていたからです。普通は合理的な筋立てをそこに読み込むことは、まず無理な相談でしょう。その展開は異様なまでに早く、ダンサーは数人ごとに別れてバラバラな動作を演じますし、動作の一つひとつもあまりにも激しいため、意味と非・意味の間を行ったり来たりするからです。しかもダンサーは全員、体型も身長も女性としてのタイプも見事なまでに違う。なにかわけのわからない「おんなたちの身体」を強迫的に見せられたという印象が、そこにいつまでも残ります。明快なメッセージはあるのに抽象的で、はっきりしたストーリーがない。それは夢を見ているかのようで、まさに「行」のダンス、行書体のダンスであると言えるでしょう。

「サカリバ」は「盛り場」であると同時におんなたちが「さかる」場であり、「女盛り」の発情期にある、おんなたちが集う場所です。ただしそれはカタカナに変換され、高度な抽象性の世界に置き換えられた「サカリバ」です。この強烈なメッセージを持つ作品は、実はわずか30分の尺しかないのに、そこに詰め込まれたイメージと身振りは膨大なものとなっています。この舞台を通じて、男性は女性へのイメージの変更を迫られ、女性はもっとも見たくなかった真実を発見して、嫌悪と安堵の感情に駆られるでしょう。

振付家のきたまりは大学在学中から既に高い評価を受け、卒業後間もなくトヨタ・コレオグラフィー・アワードにノミネートされた鬼才で、遠からずトヨタを制するだろうと私は見ていますし、もはや「その先」を私は期待しています。ダンスに全く興味のない方も、是非一度彼女たちの舞台をご覧になることお勧めします。

KIKIKIKIKIKI「サカリバ」
構成・演出・出演: きたまり
出演: 川崎香織 平田里奈 野渕杏子 きたまり
音楽: ,G
美術: 黒田政秀
衣裳: 園部典子
振付助手: 小島美香
京都芸術センター
2007年3月24日(土)18:00


KIKIKIKIKIKIと真行草

「ききき、きき……き? 覚えられないなぁ」と、JCDNの佐東さんは言いました。確かに覚えにくい名前です。覚え方のコツをご紹介しましょう。「KIKI・KIKI・KIKI」。つまり「キキ」と三回続ければいい。「キキ」とは「モンパルナスのキキ」こと、アリス・プランのことです。カンパニーを主催するきたまりから直接聞いたので、これは間違いありません。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1b/KikiMontparnasse.jpg

キキは非常に業の深い女性であって、20年代のパリの黄金期を、キスリングやフジタ、マン・レイのモデルとして駆け抜け、戦後は忘却と貧困のただ中で死んだ人です。いわば女性としての栄光と汚辱を一身に集めたような人で、女性のセクシュアリティーの持つ忌まわしさと栄光の双方をテーマにする彼女たちにとっては、もっともふさわしいイメージソースだと言えるでしょう。

「サカリバ」もこうした女性のセクシュアリティーを容赦なく暴き立てる作品で、私は周囲の女性たちから「何もあそこまでしなくても」という嫌悪感と、「言ってはいけないことを言ってくれた」という賞賛の双方を耳にしていますし、事実私もそう思います。ただし、この作品のあらすじを、「海蝉」や「きざはし」のように明快に説明することはできません。このダンスはいわば行書体で書かれたダンスであって、楷書的な具象性はないのです。ただしはっきりしたストーリー性はなくとも、誰もが一目でそれとわかる、セクシュアリティーについてのテーマを、それは内包しています。このいわば「頃合い感」こそが、彼女たちの持ち味です。

さて、順番から言えばKIKIKIKIKIKIの「サカリバ」について論じないといけないのですが、その前に少し私がダンスについて思っている、一般的な原則について少し説明しておきたいと思います。それは日本の伝統的な美学概念である「真行草」と関わっています。

書道には「真行草」の三体があります。「真」はいわゆる楷書、「草」は崩し字、「行」はその中間です。近現代の西洋美術では、おおむね「真」から「草」へ向かうベクトルこそが「発展」であると見なされ、次第に抽象性を強めた挙げ句、ついには何もメッセージを持たない物質そのものが露呈する「ミニマリズム」が登場します。あまりにも原理主義的な批評と実作が続いたため、現代美術は70年代後半に一度、深刻な停滞状態を経験したというのが私の見方です。逆に日本の伝統美術では、「真行草」は茶室の設計や美術作品の制作、さらには表装にまで拡張され、その全てが等価であるとされていました。日本の芸術家は「真行草」の全てをマスターする必要があり、この三体は進化論的には捉えられなかったのです。

私は「真行草」三体はダンスにも適応可能な概念で、その三つを等価として見るべきだと考えています。たとえば「海蝉」や「きざはし」は丁寧な楷書の「真」。テーマ性を残しつつ抽象性を高めた「サカリバ」は「行」。そして白井剛さんのダンスや丹野賢一さんのパフォーマンスは「草」である、と私は見ます。

たとえば白井さんのダンス「質量, slide , & .」は、モノや身体自身の持つ質量を、単に指示するだけのような、極めて日常的な身振りが幾度も繰り返される、非常に静謐なダンスです。そしてこうした極小の動作が無限に繰り返されるうち、身振りからはついに意味が剥落し、舞台上には純粋な身体そのものが露呈していきます。丹野賢一さんのパフォーマンスは、見た目上は白井さんの静謐なダンスとは全く逆に、破壊と暴力衝動に満ちた凶悪な印象を残します。ところが彼のパフォーマンスも「破壊」という身振りを無限に繰り返すうち、そこには純粋な物質と身体のありようが立ち現れるのです。

そこにあるのはもはや物語を放棄した、純粋な身体やモノそのものの姿です。こうした身振りを私は「草」の身振りであると思います。そこにはミニマリスティックな美しさと純粋さがありますが、もはや私たちが共有できる物語や社会的テーマからは、既に遠く隔たっています。

こうした「草」のダンスには、純粋で圧倒的な魅力があります。でもそれだけを至上の価値と見る見方に、私は与しません。純粋で抽象的な身体そのものを持ちながら、同時に社会的で象徴的な身体、心理的で具体的な身体を持つのが私たち人間だからです。この三つを描く「真行草」三体のダンスそれぞれに、進化論的な段階を設けないで接していきたい。それが私がダンスを見ていく上での立場です。

「サカリバ」を論じる以前に、その前提の説明だけで、かなりの分量を使ってしまいました。「サカリバ」の具体的内容についてはまた明日以降にでも。

KIKIKIKIKIKI「サカリバ」
構成・演出・出演: きたまり
出演: 川崎香織 平田里奈 野渕杏子 きたまり
音楽: ,G
美術: 黒田政秀
衣裳: 園部典子
振付助手: 小島美香
京都芸術センター
2007年3月24日(土)18:00


Monochrome Circus「きざはし」@京都芸術センター

男と女の間には、深くて暗い川がある……って、いまの若い人はそんな古い歌、しらないかな。野坂昭如(「火垂るの墓」の原作者)が歌ってた、「黒の舟歌」って歌なんですけれども。誰も渡れぬ川なれど、エンヤコラ今夜も舟を出す、って続くんですが。

まぁ男女の仲っつうのはむつかしいもんで、古来こういうむつかしさは、幾度も芸術上のテーマになって参りました。んで、ほとんど渡るのが不可能にすら見える「川」へ「舟を出す」のはたいてい男の方でありまして、聖母のごとき高貴さに輝く女を、男は下から見上げて渇望する、というかたちで描かれるのが、西洋では常でございます。ベランダの上に立つジュリエットをロミオが見上げる「ロミオとジュリエット」なんてのはその典型ですね。あるいは捨て子のヒースクリフが、天上の存在になったキャサリンを愛し続ける「嵐が丘」とかね。

たぶんこういう空間配置は、中世の騎士道精神あたりが源泉にあるんじゃないかと私は思っています。で、こうした配置は20世紀美術にも流れ込んでいます。たとえばダダイストのマルセル・デュシャンは、女性は時空を越えた4次元的なもの、男性は形而下的な3次元的なものと考えて、有名な「大ガラスと」いう作品を作りました。

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Duchamp_LargeGlass.jpg

上のグニャグニャしたのが「4次元的女性」、下の歯車みたいなのが「3次元的男性」なんだそうです。「なんでそうなるの?」と考え出すと、デュシャンの張り巡らした罠にまんまと落ちることになるので、ここではパスします。大事なのは、こうした「20世紀美術で最高に難解」と言われる作品であっても、「女性が上、男性が下」という約束事、ロミオとジュリエットにも通じる決まり事を守っている、ということです。

さて、Monochrome Circusの「きざはし」という作品です。Monochrome Circusは、京都を拠点に活動するコンテンポラリーダンスのカンパニーで、メンバーには大野一雄さんのお弟子さんもおられるのだとか。彼ら演じる「きざはし」も、こうした「女性が上、男性が下」という伝統的配置を、忠実に守った作品だといえます。

舞台は実にシンプルです。舞台の上には一つの机、机の上に女、机の下に男。両者とも互いを求めて出会おうともがくが、ついに果たせない。で、最後に男は机ごと女を持ち上げて、女はあたかも聖母のように、その上にそそり立つ……。

こうして記述すると実にあっさりしたものですが、実際には机の上に無数の銀食器が置かれていて、男女が暴れるたびにこの食器類が金属質の音を立て、ガシャガシャとこぼれ落ちます。これが非常に緊張感を高める役割をしていて、下手をすると「黒の舟歌」的な構図に見えかねない舞台に、デュシャン的な金属質の抽象性を持たせてるわけですね。

こうした「女性上位」の考え方は、ひょっとするとジェンダー論的に見れば「古い」のかもしれません。実際、作品上では女性崇拝に近いジェンダー観を表現していたシュルレアリストグループは、私生活では非常に古くさい女性観の持ち主で、女性を泣かせることもしばしばだったといいます。こうしたジェンダー論的な視点から、この作品を批判するのは簡単なことだと思います。

けれども、一個の「私」として見たとき、この作品を批判できるかと言えば、ちょっと難しい。正直、私のなかにもこういう古めかしい女性観は脈々と流れてますし、「女の子はかばってあげなくちゃ」とか「大事にしてあげなきゃ」とか、日常的に考えることは少なくないです。また実際、女性が社会的に被る不利益や社会的格差がまだまだ大きいことを、私たちは知っています。こうした一切を棚上げして最新のジェンダー論を振りかざすのは、危険ですらあると思います。

「きざはし」は振付家の坂本公成さんと森裕子さんが、実際の生身の恋愛で経験した出来事を、赤裸々に綴った作品だと言います。坂本さんは美学出身だそうですが、振り付けの際にはデュシャンなんか全く頭にはなかった、とも聞きました。こうした不器用なまでの愚直さを笑ったり批判したりするのは、理屈の上では簡単です。けれども一人の生身の人間としてこの舞台を見たとき、逆に彼らの誠実さ、正直さ、飾り気のなさが見えてきます。私は一人の生身の人間として、彼らの生身の「切れば血の出る」表現を、深く愛したいと思います。

Monochrome Circus「きざはし」
振付: 坂本公成+森裕子
出演: 佐伯有香 合田有紀
舞台美術: 坂本公成
衣裳:堂本教子(atelier88%)
京都芸術センター
2007年3月24日(土)18:00


伊波晋『handance 海蝉』@京都芸術センター

このブログでは基本的にダンスの公演レビューをつけていくわけですが……我ながらなんでコンテンポラリー・ダンスに興味があるのか、ちょっとまだよくわからないんですよ。はい。

だってさ、自分では全く踊る趣味なんかないんですよ、私。クラブも行かないし、盆踊りにも参加しないし。つか、「体を動かすと気持ちが良い」という、一般的によく言われる台詞の意味すらわからない。野球とかスポーツもしないし、ジムにも行かないし。体があるのがしんどい。体って私にとっては「ノイズ発生源」なんです。肩が凝ったり腰が痛くなったり性欲を生んだりして、不要なノイズを発生するもの。邪魔でしょうがない。

そういう私にとって、伊波晋(いは・しん)の「handance 海蝉」は、秘孔を突いてくる作品。ストーリーはとても明快。タンクトップに両腕を突っ込んだ若者が出てきて、抜こうとするけど出てこない。必死にもがくが、やはり抜けない。さんざん暴れた挙げ句、ようやく右腕が出てくる。そして、やっと出てきた右腕で、左手を引き出す……。

ふつうこういうあらすじのダンスを作ったら、最後は自由になった両腕で自由を謳歌して「身体の喜び」を歌い上げそうなものだけど、伊波晋はそうしない。せいぜい体を掻くとか顔をこするとか、ごく日常的な身振りをいくつかして、あとは倒れてしまうだけ。なんなんだろう、この身体に対する無頓着さは。ひょっとして私と似たような身体センスの持ち主なのかしらん?

伊波晋はもともとダンサーじゃなくて美術作家なのらしい。横浜トリエンナーレにもダンサーとして出てるらしいから、若手としてはすごいキャリアだよね。
http://www.awabar.com/
「handance」というのも自分の体がうまく動かないので、手だけで踊るダンスとして構想されたのだとか。なるほど、なんとなく納得。せっかく自由になったといっても、身体の自由さをもてあましちゃうんだね。

私は日常生活では、ほとんど身体を使わない。せいぜいキーボードを打って画面を眺めるだけ。で、それを疑問にも何にも感じていない。一日中座りっぱなしで、足を使った移動が億劫で仕方がない。でもこれってたぶん、とてもいま多いはずのライフスタイルですよね。肩こりやなんかに違和感を感じることはあっても、いざ自由にされたら何に使って良いのかわからない。そういう身体のありようを、ポンと舞台上に載せたらどうなるか? たぶん「handance」みたいな作品になるんじゃないのかな。

ちなみにタイトルの「海蝉」というのは、作者が勝手に考えた海の中の昆虫で、実在する魚とは別なものらしい。あ、そうするとシャツから腕が抜けるのって、蝉の脱皮なのかしらん? 抜け出したらすぐ死んじゃうのは蝉だから? うーん。今度彼に会うことがあったら聞いてみよう。

伊波晋 「handance 海蝉」
振付・映像・音・出演: 伊波晋
歌: 金城理子 山本弥生 神里亜樹雄 伊波晋
京都芸術センター
2007年3月24日(土)18:00


とにかく作ってみた

blog作ってなかったからつけてみた。
どう活用するか、今後よく考えてみよう。


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